2011年08月15日

66年目の終戦記念日に

CIMG6314今日は終戦記念日、、、昨日は両親待つ鎌倉の
実家に友人も誘って訪れ、珍しく手料理大会。。。。。
この辺りはひぐらしが鳴いていて、涼しげなこの鳴き声に
子供の頃を思い出す。。。。大好きだなぁ、、、ひぐらし。。。

そして友人お得意のゴーヤチャンプルや
私のワンパターンな手料理鶏肉のアンチョビとケイパー炒め
ブロッコリーのマリネ等々、、、、
たまには実家で娘の手料理で一杯やってみる?
ってな私の発案で、大皿適当料理が食卓に並ぶお盆の夕べ。

CIMG6320私の自宅に封も開けずに置いてあった2000年製造の
100%5年古酒の泡盛「龍」を持参して16年物を味わう。
この古酒の割り水には与那国原産古代琉球化石サンゴの
天然ミネラルから溶出した水を使用しているって事で
本当に、、、もう~~~~旨い
そんな思いがけない年代物の高級泡盛に父親もご満悦


酔いがイイ感じで回り始めると、父親が終戦の時の話をし始めた。
終戦の日、父は13歳、母は8歳、、、、

CIMG6323終戦記念日となった66年前のこの日、母はラジオから天皇陛下が
何か言ってる、、、と周りが騒がしかった事を覚えていて
父はその頃、自分のオヤジがポツダム宣言受諾の
ラジオ放送を聞いて万歳していたと。。。。
まあ、父のお父さん、私のお祖父ちゃんは
この戦争に否定的だった。



戦時中にその思想は周知の通り非国民扱いで、
警察からもマークされ、逮捕するかの如く時折脅すように訪ね来る警官に
袖の下じゃないけど妻である私のお祖母ちゃんはお米とか
食糧系をそっと差し出しこれで勘弁してやって、、、みたいな状況も度々あったらしい。
父の故郷は山形で農家をしていたので食糧には困らなかったそうで、学校で昼食時になると
お弁当を持たされている子供は農業を営む家の子ばかりで、殆どの子供は食べるものも無いので
昼食時はお弁当の無い子は教室から表に出て行ってしまったと言う。
そんな最中なのでおっとりしていた父はお弁当を盗まれる事が多かったらしい。。。。
そして父が戦時中に無邪気に日本は勝利の方向へ向かっていると信じて、自分の父親に
日本はいつ、神風が吹くの?と父親に訊ねたら、思いっきり殴られたらしい。。。。
きっとそんな事を信じ込まされている息子に悲しみをぶつけてしまったのかもしれない。

現実を見て知って知識を持って生きていたお祖父ちゃん、、、、
あの戦争で日本が負ける事を既に察知していた。。。無知は罪。
きっと今も昔も嘘で塗り固められた政治はあまり変わってないって事?
とにかく私はそんな亡きお祖父ちゃんの話を聞く度に
お祖父ちゃんの存在が頼もしいと感じ、その血筋を誇りに思う。

また父は広島、長崎と原爆投下された後、山形でも原爆には白装束が身を守るという
妙な噂まで立ち、白装束姿の人が出てきたり、また原爆投下後それぞれの地域でも
こちらもやられるんじゃないかという懸念から学徒動員の人々が寝泊まりしていた
山形の海軍航空隊の施設からひとまず10日間休みにして離れさせられ、自宅に戻ったところ
その海軍航空隊の施設はその間に予感的中で空爆に遭ったそうで、、、、
自宅に帰されなければ父も死んでいたわけでまさに命拾い。。。。。
その時、帰宅決断をした人に感謝で、そんな状況下で終戦を迎えたわけだ。

戦争と言う激動の時代を乗り越えて、復興して来たこの日本。。。。
今もまさに見えない戦争が巻き起こっているかのようなこの国で、戦争で散っていった
尊い命達に、こんな国で、誠に申し訳ない・・・って思ってしまう今日この頃。
本当の平和な夜明けはいつになるのか。。。。。
そしてそんな尊い命の上に私達は生かされ生きている、、、それを忘れちゃいけない。


mikahino at 13:04│Comments(1)TrackBack(0)

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この記事へのコメント

1. Posted by 富士びたい   2011年08月15日 16:12
知識として知っているだけですので見たわけではありませんが、かつての戦争は「大将」も現場に居ました。指揮官が「ツラさ」「悲しさ」を肌身に感じていたのです。しかし、今の戦争は「大将」が現場に居ません。僕たちのジィちゃんたちは、弾の飛んで来ない所でヌクヌクとしていた連中の指示で、暑さ寒さに耐えながら無駄死にして行ったのです。まるで、テレビゲームですよ。僕は、それがやるせなくて仕方ありません。戦争をしたいなら、トップ同士がサシでやって欲しいですね。

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